永遠に僕のもの 感想 優秀なサブタイと美という権力

あらすじの解説などは一切しません。見た人にしか分からないネタバレありの感想です。

 

 

永遠に僕のもの、約1年ぶり……?にみました。初見時も思いましたがやっぱいい映画ですよね、これ。全ての瞬間が美しくて、どこを切り取ってもポスターにできるレベル。

それだけではなく、音楽、俳優、この映画を構成する全ての因子が美しいのです。

 

完成された空間の中で一際輝きを放っているのが今作で主人公を演じているロレンソ・フェロです。立ち振る舞いから歩き方、視線の動かしかたまで全てが官能的、圧倒的で、一目で特別だと感じさせるこの存在感が映画に与える影響力はとても大きく、彼がいるからこそ生まれる説得力はかなり大きいですね。渇き。の小松菜奈君の名前で僕を呼んでのティモシーシャラメを連想させます。

 

美という権力について

ここで指す美はなにも人物に限った話ではありません。神々しい自然や、荘厳な建築物、魂を揺さぶる音楽、様々なものに美という形容詞を当てはめることができます。美しいと言うだけで放つ

圧倒的オーラ、影響力、即ち権力。

大昔は美人のために戦争をして国を奪い合い、ほんの50年前も性別問わず美人の権力は絶大で世間に、後世に大きな影響を与えるような権力を持っていました。

マリリン・モンロービョルン・アンドレセンなどはあまりに有名です。

 

主人公のカルリートスは息をするように盗み、人を殺し、彼が犯した罪は決して美化されていいものではありません。それが気付けば惹かれている、背徳感からくる興奮ってあるじゃないですか、いけないってわかっているからこそ燃える、みたいな。まさにそれです。

カルリートスがした事は何一つ肯定できないし正当化しようとは思えないけど、(というか、させないような作りですよね。)目を奪われてしまうんですね。

私はカルリートスのあまりの美しさに映画に集中出来ず、何回も巻き戻して見ます。

道徳的な思想は一切必要なく、ただ美しいんです、彼は。

 

この映画の好きなところは、徹底的に淡々と描写するところです。前述の通り私はカルリートスに同情だとか理解は寄せませんでした。

状況説明などの台詞は一切なく登場人物らの会話とカルリートスを中心に映すスタイルなので、解釈を楽しむ映画だと思います。答えはありません。

 

実際にあった事件を元にしているからなのか、カルリートスには悲しい過去があって…この殺人にはこういう動機があって…というようなものを一切語らせないのが一貫していて痛快でハマります。

それはラモン側も一緒なので世界を全て覗き見ているのに私達はあくまで外側からしか見れず、内側の痛みを感じ取ることは出来ても理解することは出来ないのに「2人の間にしかない何か」は感じることができ、そんなところがとても好きです。

例えば2人の出会いもそうで、カルリートスがラモンのどこにビビッときたのか、何故バーナーを首に近付けたのか。逆になぜラモンはカルリートスを気に入ったのか。全てはそこで再生されているだけで、私は想像することしか出来ない。

だからこそ熱烈に伝わってくるカルリートスの

ラモンへの思慕がただ再生されている映像の中で唯一生々しく、浮き彫りになっていきます。

 

 

私は何故そうなるのかをとても気にしてしまう人間で、だからどうして何故の過程を飛ばして結論だけ提示されると、そういうものなんだと納得することはなく、何故そうなるのか?を論理付けて証明してもらわないと気が済まないところがあります。そんな人からしたらイライラしたり、つまらないと思ってしまう要素の1つなのかなとは思います。

 

ただ、カルリートスはラモンが好きなのです。とても。これが邦題に繋がってきますね。

 

作中でカルリートスは盗むことに焦点をおき、盗んだものについても、金にも執着しません。盗品を人に渡す時に真っ直ぐ目を見て嘘をつくカルリートス、好きです。

ラモンは逆です。盗みを生業とし金のために盗み、盗む(んだ)物に重きを起きます。2人はいつもどこかすれ違っていて魅力的です。

しかしこのすれ違いこそ決定的で、ラモンは生きるために盗みをしているので、自分のやりたい事を前にしたとき、足を洗うことに迷いはしないでしょう。

私はラモンとカルリートスは相思相愛に近いものだったと思います。ラモンはカルリートスから向けられた好意は理解しつつ、彼のことは理解出来ないのだとカルリートスを見る畏怖を含んだ目で感じました。2人とも恋人?のような存在はいましたが、それはアクセサリーに近いものだったのだと思っています。

一方でカルリートスは自由奔放、いとも簡単に嘘をつき本物の銃を母親に突きつける。そんなカルリートスがラモンに好意を伝える手段は股間を宝石で覆ったり、彼を馬鹿にした奴を殺したり…あまりにも一方的で幼稚なやり方しかなかったのでしょう。あまりにも未熟で残酷で、そこに年相応の一種のピュアさを見出すことも出来ます。

 

ゲイのビジネスマンとラモンの距離が近くなり、パリに連れていかれそうになる、自分のことを裏切り者とよび彼の家族も自分を蔑ろにする、簡単に新しい相棒をつくる……その全てがカルリートスにどう写ったのか、私には分かりませんが、カルリートスは見事ラモンを「永遠に僕のもの」にしたわけです。

 

導入の、僕は天から降りてきた  神の使者(スパイ)として        という台詞と、原題のEL ANGEL(天使)に、美しく神の1番お気に入りだったが反乱を起こし地上に堕とされたルシファーを重ねました。映画のポスターにもなっているバスルームのシーン、満たされることなく飢えている様もこれまた完璧に美しいです。

 

新しい相棒とラモンとの思い出の宝石店に盗みに入り、ラモンの幻聴を聞き、ラモンに似せるために顔を焼き、それでもラモンは彼の元には戻ってこないのです。(最初に盗みに入ったあと移動させた可能性もありますが、結局金庫には何も入っていなかった、というのもニヒルで好きです。)

 

盗むまでの過程が大事だったはずのカルリートスが盗むだけじゃなくずっと独占しようとした結果の永遠に僕のもの。
なにか満たされない…な日々は終わって、同時に永遠のものも失って、その上でラモンが恋しくて流す涙は純粋以外のなんなのかという話

 

ダンスに始まりダンスに終わるこの映画ですが、カルリートスの本質は変わっていないのと同時に最初のダンスと最後のダンスは何か違うものがあるんじゃないかと思います。

 

ラモンが居なかった世界は、彼にとって価値があったのか

 

ラモンが居なくなった世界は、彼にとって価値があるものなのか